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白鹿の歩み

350年を超える時の流れ

酒は大らかに楽しんでこそ味がある。一日に一日分の仕事をして、後は色沢淡麗香気秀抜の美酒を得て、酒精たちの棲む陶然境に心を遊ばせる。この無上の楽しみに健康長寿の願いを込め、日々卓上にお届けすることが、白鹿の酒造りの心。これまでの歩み、そしてこれからの歩みの中に、白鹿が守り続けていく酒造りの心です。

銘酒「白鹿」の由来

「白鹿」の名前は、長生を祈る中国の神仙思想に由来します。
唐の時代、玄宗皇帝の宮中に一頭の鹿が迷いこみ、仙人の王旻(おうびん)がこれを千年生きた白鹿と看破しました。調べると、角の生え際には「宜春苑中之白鹿」と刻んだ銅牌が…。“宜春苑(ぎしゅんえん)”とは、唐の時代を千年もさかのぼる漢の武帝の時代のもの。皇帝はこれを瑞祥と歓んで慶宴を開き、白鹿を愛養したと伝えられています。その後にこの話を詠った瞿存斎(くぞんさい)の詩には「長生自得千年寿」の一節があります。「白鹿」の名は、縁起のよいこの故事にならい名付けられました。
江戸時代の看板に「宜春苑 長生自得千年寿 白鹿」という銘が打たれています。「白鹿」の名には、350余年の昔から、自然の大いなる生命の気と、日々の楽しみと、長寿の願いが込められているのです。

起業 辰屋吉左衛門

1662年(寛文二年)、徳川四代将軍家綱の頃、初代辰屋(辰馬家の当時の屋号)吉左衛門が西宮の邸内に井戸を掘ったところ、その水が清冽甘美であったため、これを用いて酒造りの事業を始めたと伝えられています。「酒造りには樽が要る。ならば樽も作ればいい」—初代吉左衛門は、酒造りとともに酒樽の製造も家業としました。初代吉左衛門のこの発想は、辰馬本家酒造の事業展開の底流となり、その後さまざまな事業へと発展していきます。

“灘の銘酒”として不動の地位を確立

江戸時代中期、ますます人気となった灘・西宮の「下り酒」。中でも、創業以来、江戸積を中心としていた白鹿の酒は、幕末には“灘の銘酒”として不動の地位を確立しました。樽廻船による江戸積から連鎖して回漕業や金融業を起こし、灘の酒造家から懇請され、「宮水」として良質であった居宅蔵の井戸水を販売し始めたのもこの頃です。

「黒松白鹿」の誕生

明治維新以後も常に技術の革新に取り組む白鹿は、全国第一の醸造高を記録し、業界に先駆けて海外へ積極的に進出しました。海運業の近代化、人を育てる教育事業や地域文化を支える社会貢献にも尽力しつつ、1920年(大正9年)には丹波杜氏・梅田多三郎によって新醸造に成功、高級酒「黒松白鹿」が誕生しました。

一世紀にわたり酒徒を魅了した双子蔵

明治中期から昭和にかけて順調に発展してきた灘五郷の酒造業は、第二次世界大戦の戦災により大打撃を受けます。白鹿も53蔵中35蔵を焼失。美しい煉瓦造りの新田十番蔵、通称「双子蔵」は、奇蹟的に残された蔵のひとつでした。しかし、1894年(明治27年)の完成以来、100年以上現役として銘酒を育み続けた双子蔵も、1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災による壊滅を免れることはできませんでした。

伝統と創造を積み重ねて

350年の時を超え、脈々と受け継がれてきたのは、白鹿の酒造りの心。いつの時代も先取の精神をもって白鹿の酒造りに取り組んできた先人たち。1993年(平成5年)に完成した「六光蔵(ろっこうぐら)」では、丹波杜氏が積み重ねてきたかけがえのない技術を未来へ活かす酒造りが行われています。白鹿はこれからも、造り酒屋の基本である米、水、風といった自然と対話しながら伝統と創造を積み重ね、大らかに楽しむための酒を育てていきます。