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白鹿の酒造り

酒は造るものではなく育てるもの

宮水、良質の米、摂海、六甲おろし。自然の恵み豊かな風土なくして、白鹿の酒は生まれませんでした。酒造りの主役は自然の恵みと微生物です。愛情を込めて、麹や酵母のたくましい成長を見守り育てていくのが白鹿の酒造り。愛情をかければかけるほど微生物は見事に応えてくれ、おいしい酒に成長する。「酒は造るものではなく育てるもの」、それが白鹿の信念です。

宮水みやみず

科学の知識もないのに宮水をきき分けた、先人たちの感性の鋭さには驚かされます。
初代辰馬吉左衛門が西宮の邸内に井戸を掘ると清冽甘美な水が湧き、その良質の水を活かして酒造りを始めたのが白鹿の始まり。室町時代にはすでに、西宮で造られる酒は「西宮の旨酒」として評判を取っていたといいます。しかし、その理由が水にあり、西宮の水、略して「宮水」が名酒造水であることに山邑太左衛門が気づいたのは、白鹿が酒造りを始めた寛文二年(1662)からさらに178年後の天保十一年(1840)のことです。

今では科学的な調査によって、宮水と他の醸造用水との違いが明らかにされています。宮水は、酵母の発酵を促すリンと、カリウムをはじめとするミネラルを多く含んだ硬水で、適度な塩分を含んでいます。その上、酒が最も嫌う鉄分はきわめて少ないのです。宮水は、まさに、酒造りにとっての天与の水といえます。 すべて宮水で仕込む白鹿の酒は、発酵が旺盛で丈夫な“秋晴れ”のする酒。馥郁とした香気が漂いハリのあるすっきりとした酒質は、宮水によって得られるものなのです。

山田錦やまだにしき

酒造りの米といえば、山田錦を連想する人が多いのではないでしょうか。山田錦は、昭和十一年(1936)、兵庫県の美嚢(みのう)・加東(かとう)地区で繰り返し行われてきた品種改良により生まれました。六甲山系の北側にある美嚢郡は、日本書紀にもその名が記されているほど古くから優良米の産地として知られる場所です。摂津米、播州米は酒米として古くから重用されており、白鹿の場合も同様にそれらを重用してきました。灘の酒造家たちが質のよい米を求めて農家と酒米の取引を始めたのは、明治時代半ば頃からと言われています。この村米制度は酒造家と農家を深く結びつけ、単に酒米の取引だけにとどまらない心の交流を生みました。兵庫県で銘酒米・山田錦が生まれた背景には、灘の酒造家たちが村を支援し、それに応えて農家が優れた米をつくり出す、そんな酒造りにかける一途な情熱があったのです。

白鹿は、今も兵庫県東播地区の「白鹿会」加盟農家に契約栽培をお願いし、良質の山田錦を丹念に育てていただいています。白鹿が酒造りに使用する山田錦はすべて兵庫県産のもの。大粒で、ほどよい大きさの心白(米の中心の白いところ)を持つ、灘の酒のために生まれてきた山田錦は、白鹿の酒に欠かせない酒米です。

六光蔵ろっこうぐら

白鹿は、先取の精神に支えられ、時代時代の技術と情熱を酒造りに傾注してまいりました。1993年(平成5年)完成の「六光蔵(ろっこうぐら)」は、酒造りの複雑な工程を自動化した設備と手造り蔵を同じ建物の中に備えた蔵です。ここでは、丹波杜氏が積み重ねてきたかけがえのない技術と最新のバイオテクノロジーを一体化させ、未来につなげていく酒造りが行われています。
酒は生きもの、時代が変わり設備や道具が便利になっても、酒質を左右する神秘があまりにも多い酒造り。いつの時代のどんな蔵にも、杜氏や蔵人の手のうちに日日微妙な違いを感じさせながら、白鹿の新酒が育っていくことに変わりありません。六光蔵にも、長年受け継いできた丹波杜氏の確かな技が息づいているのです。